sachitowaconsultingのブログ

みんなが幸せに向かえる世の中であってほしい

「食」について

食べるということ

私たちは、食べたものをもとにして作られている。血も肉も骨も、ホルモンも。

だから「食べる」というのは「空腹を満たす」ことより「からだに必要なものを摂り入れる」ことが本来の目的のはず。

私の持論はこうだ。ストレスやいろんな刺激からニュートラルでいられれば、本来「からだ」は必要とするものを要求し、その持ち主はその声を聞く力を持っているはずだ、と。

ところが、「作られた刺激的な」味で、おそらく我々の味覚は本来の機能を失っている。そのくせ、太古の飢餓を乗り越えた時代の糖質や脂質を喜ぶ脳の機能は原始的なまま頑固に残っているらしい。

忙しいことが当たり前になってしまっていて、材料から作って食べる余裕は現代の暮らしの中にはないと思っている人が大勢いる。

作って食べるなんて「高度な要求」をすることは敬遠される。

そして今や忙しい上に貧乏だ。私が子どもの頃は貧困の目安はエンゲル係数だとならった。それから30年以上たった。スーパーに行けば安く手軽にお腹をいっぱいにするものが溢れている。安く、刺激的なものが溢れている。

 

企業の矜持

企業は本来顧客の幸せのためにものやサービスや技術を提供し、その見返りとして利益を得る存在であるはずだ。けれども平気で、資本家のために利益を上げることが第一だという。顧客のデマンドは操作される。本来のニーズではなく、消費させるためのデマンドを作り出す。多くの人から時間とお金を搾取して「売れれば良い」モノを作って売る。本当に食べる人の幸せを願って作っている、販売している企業がどのくらいあるだろうか。

 

日本の政治

やはり私が子どもの頃、日本は規制が厳しくて日本で使われているものは安全と思っていいという感覚があった。そればごく最近までなんとなくそう思っていた。そして気がついた。とんでもない。今や企業の利益のためには「疑わしきは罰せず」を大原則とし、「危ないけれど企業の利益を損なわないこととのバランスをとって許容範囲を決めている」などと平気で言っている。ゾッとする。なんでもゼロリスクを求めるな、物事にはベネフィットとリスクのバランスが大事などとさもそうに言う。ごく最近使われ始めた得体の知れない「大量なら毒だけど少量なら大丈夫」な物質が、個体の寿命の間本当に大丈夫なのか、子々孫々も安全か。

証明しろとは言わない。そんな危険なかけをしなくても良いのではないかと思う。

がんが増え、発達障害と言われる人が増え、過敏症が増え・・・何かが起こっていると思わないのだろうか。

 

世の中の流れを本来の人の幸せに向かう方に変えたい

国政も企業経営も、人のやってることだ。本当に幸せな世の中ってどうなの?みんなはどう描くの?

結果主義、数値化主義で理想を語ることを巧みに封じ込めてきた。「実現できもしない理想」と切って捨てて、目の前の見えることだけに対応することが本当に正しいのか。

人それぞれ理想や幸せは同じではないかも知れない。それでも、理想を描き続け、そこに向かうための見えるビジョンに落とし込み、それを達成するために始めて具体的なプランを立てる。常に理想を見つめ直し、軸を修正して進んでいく。

「痛いから痛み止め」、「血圧が高いから降圧剤」が本当に正しいのか。こころもからだもたましいも喜ぶ整う安らぐ暮らしを作っていこうよ、ね。