sachitowaconsultingのブログ

みんなが幸せに向かえる世の中であってほしい

政党でなく、政策で語ろうよ、と思う

政党で語ると、どうも丸ごとダメと決め込んで、自分たちの暮らしに直結している課題にさえ無関心にすら見える書き込みなどが気になる。

政局運営の力があるかどうかはもちろん大事だろうけれど、ズブズブの一部の団体のバックアップを受けるか足を引っ張られるかということの方が大きい気もする。そもそも、自分たちにとって望まない政策を「安定的」にしてくれればそれでいいのか?と思う。

国の安全保障の考え方

食料自給率とか、農林水産業をどうするのかとか、労働力人口の減少とこれからの産業構造をどうするのかとか、人口政策はどうか、地方地域をどうするのかとか、ライフラインのあり方はどうなのかとか、本来の税金の役割は何かとか・・・暮らしに関わる課題はいっぱいある。国民が、市民が自分ごととして考えて、議論をオープンにして今も未来も見通してどうしていくのがいいのかという事をもっと話し合ってもいいんじゃないかと思う。代議士と呼ばれる人は、その一般の人々と意見をなるべく多く交わし、いろんな人々生活実感を聞き、時には法律や制度や世の中の仕組みをわかりやすく伝え、暮らしと政治つなぐからこそ代議士なのではないのか。我々国民が大いに反省し、知り、考えるもうリミットに来ている。リミット超えているとも思う。みんなで覚悟を持ってグレートリセットして、本当の国民の、自分たちの幸せのために政治を考えようよ。

戦争と平和と幸福とーその3「何が起こっているのか」

戦争のない、核のない世界は絵空事ではない。けれども、容易く手に入る真実ではない。私たちにできることはなんだろうか。さちとわなりに考察を進めたい。

何が起こっているのか

 おそらく多くの人々は、自分も自分の大切な人も見ず知らずの人でさえ傷ついたり命や自由、人としての権利を奪われたりすることに恐怖を感じるだろうし、悲しみや心の痛みを感じるだろう。

 それなのに、なぜ、戦争の準備をするのか。相手のなわばりに敢えて踏み込みそのなわばりを奪うのは、自分の仲間が存続できないほどの危機に晒されているからなのか?

 作物の育たない痩せた土地や水のない土地、災害の多い土地にさえ、他の土地を奪いに行くようなことはせず争いを避けて暮らし続けている人びとがいる。

 それなのになぜ、戦争の準備をするのか。

 おそらく・・・権力とお金の魔力によるものだと思う。権力やお金を手に入れて何を成したいのか、は見えてこない。人々を人とも思わず傷つけ命さえも脅かしてまで権力やお金を集めるのは何のためか。何のためでもない。それ自体が目的になっている。むしろ、それらを失う恐怖を持っている。その魔力は多分「依存症」なのだと思う。「権力依存症」と「お金依存症」。そして、「人」の命や尊厳に差別をつけ、自分たち権力者やそのための支援者、資産家以外の命や尊厳を軽んじている自分たちにも気づいていない思いを持っている。

 権力とお金の魔力は強く、容易に依存症に陥ってしまうのだろう。権力や財力がなくても無条件に愛される存在であるという実感、無条件に人を愛する心、何よりお金も権力もない自分でも認め愛せる自己肯定感が育っていないのではないか。金と権力でしか愛された記憶が乏しいか、金や権力で得た愛情の方が強烈に蜜の味だからかー

どうすることができるか

 簡単には変えられないけれど、存在そのものを尊び合う思いを培っていかねばならない。一人でも多くの人々が。

 国同士でも同じだと思う。非があるからと追い込んで、権力や金を失うことに恐怖を抱いている権力者たちの恐怖をさらに煽れば、さらに権力を強め金を集め他国にもその権威をちらつかせるだろう。取り囲んで銃口を突きつければ、いつかは緊張のバランスが崩れてしまう。ロシアの侵攻の背景にはこういったことも無縁ではなかったと考えている。自分たちには火の粉のかからないところで協力しているようなふりをして、実は、両国の無垢の命は多少犠牲にしても構わないという思惑が透けて見えるように思う。

 簡単にはいかないだろう。自分たちの世代は見届けられないかもしれない。国の環境も文化も気質も違う、宗教も違えば価値観も違う。それでも粘り強く国同士もお互いを尊重し合い、助け合うという思いを培っていくしかないと思う。

 すぐに答えは出なくても、日本がそんな外交の先駆者になってほしいと思うし、なっていくべきではないかと思う。唯一の被爆国であり、大日本帝国の失敗に学び日本国憲法の誇る国への転換と発展をしてきた日本だからこそ。

 

その4 では、「平和で幸福な世界のために私たちにできること」を考えてみたい。

戦争と平和と幸福とーその2「本当に目指したい世界」

さちとわなりに、戦争のない世界、平和ですべての人々が幸福を目指せる世界を考えてみる。

その2 本当に目指したい世界

「核のない世界」「戦争のない世界」は目指せないのか。私はそうは思わない。そこに向かうためのいくつかの鍵があると思う。具体的な解決策を私如きが持っていると主張する気はない。ただ一人でも多くの人に一緒に考えてもらいたいと思う。

では、どうすれば良いのか? 

まずは本当に目指したい姿をしっかり見据えること。

本当に目指したいのは「核のない世界」「戦争のない世界」ではない。

本当の理想の世界って、すべての人がお互いに尊重し合い助け合ってみんなでより幸せに向かおうとする世界ではないだろうか。

銃口を突きつけあって「抑止」し続ける世界ではなく、認め合い助け合い信頼し合う世界ではないか。

マズローの欲求の5段解説はご存知の方も多いと思う。世の中のために自分なりに何か役に立ちたい誰かを助けたいという欲求はまず自分が世の中に受け入れられていて世の中の一員でありたいという欲求が満たされて初めて生まれるとされる。

これらの欲求は安全や安心が満たされた上に芽生える。さらに根底には、生理的欲求が満たされることが在優先される。

すなわち、食事や睡眠、排泄などが担保され、安心して暮らせることー安全に暮らせる住まいがあって、自由が保障されていることや経済的にも安定していること、これら基本的な欲求領域が満たされて初めて、社会の一員であろうとか世の中の一部としての自分の存在への欲求が生まれる。

今の世の中では、基本的欲求の部分さえ脅かされている。今の日本はそうである。
食事が十分摂れない人がたくさんいる。学校給食だけが栄養源の子どもがたくさんいる。その給食も栄養が十分確保されていると言えない現実も見聞きする。睡眠を削って労働させられている人も少なくない。誰かの威信のために「睡眠削って働かす制度を延長しよう」などという輩さえいる。自分の住まいを持つことが贅沢ということがまるで当たり前のような社会だ。家を持って住まう、借りて住まうどちらにしても相当な経済的負担をしなければ叶わない。それだけの負担を払いながら、水・空気・騒音などそして放射能ー安心さえ確保されるとは限らない。

こんな状態で、世の中の一員としての自覚を持とうとか、ましてや助け合おうとか思えなくても当然なのかもしれない。

衣食住、休養と睡眠をまず十分確保されなければならない。自己責任ではない。国というものがある以上、国は責任を負わなければならない。今の日本ならやる気があればできることだ。ただ、食料需給力をどんどん下げ、海を汚染し、森も守らない政策を続けていては、自国の力で出る力は確実に削られていると思う。

 

次回は、なぜ、国は国民の基本的欲求を満たし守ろうとしないのか、世の中の仕組みの何が障壁なのかを考えてみたい。

戦争と平和と幸福とーその1「戦争のない世界は絵空事か?」

広島、長崎、そして終戦の日核廃絶の叫びと、そのために核が必要だという矛盾。反戦を誓いながら軍拡する矛盾。

さちとわなりに、戦争のない世界、平和ですべての人々が幸福を目指せる世界を考えてみる。

その1「戦争のない世界は絵空事か」

 そう言われてしまうのも無理はない。「ない」ものは目指しようがない。「ない」を目指すと、「ない」ために今あるものをなしにしようとする。核を捨てろと言われても、疑心暗鬼で捨てられない。あっちが捨てたらこっちも捨てるとお互い言い合う。とある国を悪者にして、核を使わせないために核で脅すしかないという。

 目指しているのは「なくす」「使わせない」ないことばかりだ。

 効果はわかりやすいかもしれない。疑心暗鬼の中で核を持ち、恐怖のために核を死守し、恐怖のために核を使わない。

 果たして、永遠に疑心暗鬼と恐怖に支配され続けることが「平和」なのか。

 2023年8月6日 広島平和記念式典の知事のスピーチを聴いていただきたい。核抑止力の破綻について明快に述べられている。

 ※Youtubeなどで観れるので、まだ聴いてない人は是非、子どもたちの宣言、市長、首相、知事それぞれのスピーチを聴いてみてほしい。

では、「核のない世界」「戦争のない世界」は目指せないのか。私はそうは思わない。そこに向かうためのいくつかの鍵があると思う。具体的な解決策を私如きが持っていると主張する気はない。ただ一人でも多くの人に一緒に考えてもらいたいと思う。

では、どうすれば良いのか? 続きはその2へ

「食」について

食べるということ

私たちは、食べたものをもとにして作られている。血も肉も骨も、ホルモンも。

だから「食べる」というのは「空腹を満たす」ことより「からだに必要なものを摂り入れる」ことが本来の目的のはず。

私の持論はこうだ。ストレスやいろんな刺激からニュートラルでいられれば、本来「からだ」は必要とするものを要求し、その持ち主はその声を聞く力を持っているはずだ、と。

ところが、「作られた刺激的な」味で、おそらく我々の味覚は本来の機能を失っている。そのくせ、太古の飢餓を乗り越えた時代の糖質や脂質を喜ぶ脳の機能は原始的なまま頑固に残っているらしい。

忙しいことが当たり前になってしまっていて、材料から作って食べる余裕は現代の暮らしの中にはないと思っている人が大勢いる。

作って食べるなんて「高度な要求」をすることは敬遠される。

そして今や忙しい上に貧乏だ。私が子どもの頃は貧困の目安はエンゲル係数だとならった。それから30年以上たった。スーパーに行けば安く手軽にお腹をいっぱいにするものが溢れている。安く、刺激的なものが溢れている。

 

企業の矜持

企業は本来顧客の幸せのためにものやサービスや技術を提供し、その見返りとして利益を得る存在であるはずだ。けれども平気で、資本家のために利益を上げることが第一だという。顧客のデマンドは操作される。本来のニーズではなく、消費させるためのデマンドを作り出す。多くの人から時間とお金を搾取して「売れれば良い」モノを作って売る。本当に食べる人の幸せを願って作っている、販売している企業がどのくらいあるだろうか。

 

日本の政治

やはり私が子どもの頃、日本は規制が厳しくて日本で使われているものは安全と思っていいという感覚があった。そればごく最近までなんとなくそう思っていた。そして気がついた。とんでもない。今や企業の利益のためには「疑わしきは罰せず」を大原則とし、「危ないけれど企業の利益を損なわないこととのバランスをとって許容範囲を決めている」などと平気で言っている。ゾッとする。なんでもゼロリスクを求めるな、物事にはベネフィットとリスクのバランスが大事などとさもそうに言う。ごく最近使われ始めた得体の知れない「大量なら毒だけど少量なら大丈夫」な物質が、個体の寿命の間本当に大丈夫なのか、子々孫々も安全か。

証明しろとは言わない。そんな危険なかけをしなくても良いのではないかと思う。

がんが増え、発達障害と言われる人が増え、過敏症が増え・・・何かが起こっていると思わないのだろうか。

 

世の中の流れを本来の人の幸せに向かう方に変えたい

国政も企業経営も、人のやってることだ。本当に幸せな世の中ってどうなの?みんなはどう描くの?

結果主義、数値化主義で理想を語ることを巧みに封じ込めてきた。「実現できもしない理想」と切って捨てて、目の前の見えることだけに対応することが本当に正しいのか。

人それぞれ理想や幸せは同じではないかも知れない。それでも、理想を描き続け、そこに向かうための見えるビジョンに落とし込み、それを達成するために始めて具体的なプランを立てる。常に理想を見つめ直し、軸を修正して進んでいく。

「痛いから痛み止め」、「血圧が高いから降圧剤」が本当に正しいのか。こころもからだもたましいも喜ぶ整う安らぐ暮らしを作っていこうよ、ね。

 

 

「はてな」に引っ越したわけ

お題「はてなブログをはじめたきっかけ」

この時期、結構いると思うんですがー青い鳥がバツ印に変わった某SNSから引越し先を探している人。

自分もその一人。

反対の意見を持っている人の言葉も聞こうと思って気になる投稿のリプを読むけれど、建設的な意見はほとんどなくいかに見下すか、蔑むか、訳のわからない持論を展開するかで、ほとんど参考にならないばかりか気分が悪くなるばかりだと思っていたところへ

青い鳥いなくなっちゃったし

でも、某大手もあんまり最近気が乗らないので

できれば日本発ので、政治や世の中の情報やそれに対するいろんな人の意見が見れるところ〜と探しててたどり着いたのが「はてな」だった。

まだ、使い慣れないのでどうだかわからないけれどしばらくいてみようかなと思う。

どこで出しても開店休業になっちゃうブログなので、どこでも同じなら思いもここへ綴っちゃおうかなというところで「はてなブログ」開始。

よろしく。

 

幸せ発信基地「さちとわ」

朝起きて、お天道様におはようを言う。

ちゃんとからだの声に耳を傾けて聴いて、考えて、一手間かけてご飯を作って食べる。

ゆったりとした時間を味わう。

からだを動かす。こころを動かす。人と触れ合う。

誰かのお役に立つ。

夜は、ぐっすり眠る。

そんな当たり前の日々をみんなのところに取り戻そう。ね。